妹の最期「母ちゃんに抱っこうれしい」 壮絶逃避行を手記に

1945(昭和20)年8月、長野県旧片桐村(現中川村)出身の岩本直美さん(80)=兵庫県三木市=は、「第7次中和鎮(ちゅうわちん)信濃村開拓団」の一員として、旧満州国(現中国東北部)で終戦を迎えた。7歳の直美さんは歩き続けた。1年2カ月に及ぶ逃避行。2歳の妹は息絶え、祖母とは生き別れに。「自分の子にもきちんと話せなかった。でも、残すことが大事と思って」。壮絶な体験を手記にまとめた。(上田勇紀)

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 <八月のある日、突然母が心を乱したように叫んだ。早く早く着れるだけの洋服を着なさい。(中略)私は、何が何だか意味もわからないまま、母のいうことを聞いた(手記より)>

 ハルビンの東に位置する旧満州国の中和鎮には長野県下から1164人が入団した。開拓生活は約7年で終わった。ソ連侵攻も終戦についてもよく分からないまま、ほかの開拓民と重い荷物を背負って街を出た。

 父ら男性は満州で召集されて不在。開拓団の多くは女性や子ども、高齢者だった。妊娠中の母が祖母と子ども5人を率いた。後ろで銃声が響く。「ソ連兵に捕まったら犯される」とうわさが流れ、女性は髪を切り、顔に墨を塗りたくった。

 <冬に入っていっそう寒さは厳しくなる。ようやく雨露しのげる収容所に入ることができた>

 祖母はついに衰弱して動けなくなった。病人や弱った人は残していくことになり、そこで生き別れた。

 次に訪れた収容所では、下痢が続き、栄養失調でやせ細った妹が亡くなる。

 <ある日「お母ちゃん、さとみが、さとみが」と叫ぶ姉の声に、飛んできた母に抱かれて、「母ちゃんに抱っこしてうれしい」とひと言言ったとか。それが妹の最後の言葉だった>

 母が抱いた瞬間に息を引き取った2歳の妹・市瀬さとみさん。直美さんは、まだ温かい体にすがりついて泣いた。土は凍っており、遺体は雪を掘った穴に放り込まれた。

 直美さんは一時、現地の人の家庭に預けられたが、家族と合流し、46年10月、引き揚げ基地から佐世保へ向かう船に乗り込んだ。

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 満蒙(まんもう)開拓平和記念館(長野県)によると、終戦時1001人いた信濃村開拓団のうち、生きて帰ることができたのは351人。まさに「死の逃避行」だった。

 直美さんは結婚後、三木市に住み、保育士として働いた。平穏な暮らしだったが、よく悪夢を見た。満州で預けられた家から逃げ、2頭の馬に片足ずつ縛られ、股割きの刑にされる-。

 「戦争によって平和を守ることは絶対あり得ない。そう叫びたい」。直美さんは思いを強くする。

 手記は「追憶 満州引き揚げの旅路」(B5判28ページ)。三木市立中央図書館(同市福井)で読むことができる。

満蒙開拓団】貧困にあえぐ国内の農村救済と旧ソ連からの防衛を名目に、旧満州国への移民が奨励された。その数は終戦までに全国で約27万人。引き揚げの逃亡生活や集団自決などで約8万人が死亡した。満蒙開拓平和記念館によると、長野県からの移民数が約3万3千人と全国最多。兵庫県からは4400人。

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